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”分かること”と知っていることの大きな違い

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僕たちは情報過多な時代を生きている。

こんな時代において僕たちはいつでもどこでも知りたいことをサクッと知ることが出来る。

いやできてしまうといってもいいかもしれない。


急にこんなことを言ったのはそんな状況に一石を投じたいからである。



僕らは何も分かっていないただ知った気になっているのである。



知ること分かるというのは違う

知ることと分かるということの間にはイチローとハンカチ王子ぐらいの差異がある。

(たとえのセンス無さには目をつぶってほしい)


この情報過多の時代において知ることはすごくすごく簡単だ。

ネットでサクッと調べてグーグルやヤフーのアルゴリズムによって取捨選択された情報を読めば簡単に、知ることができる。

もちろん人間の理解力には差があるので、人によってはなかなか理解できないこともあるかもしれない。

でも多くの人にとって、サクッと調べてサクッと知る。

この感覚は概ね同意していただけるものではいだろうか?


とはいえ、知るということ=分かることではない。

知ることのハードルは下がったけれど分かることのハードルは変わってないのかもしれない。

分かることはどういうことか


それでは分かるということはどういうことなのだろうか?

それは、端的に言うならば、体験を伴って知ることだと思う。

体験を伴わずただ知るだけでは人間は何も得ることはできない。

なぜならただ知るだけでは、それは想像の出来事にすぎないからである。


現代を生きるわれわれの祖先である石器時代の先人たちは常に、本能的に生きること、そして種の拡大を求めていた。


そんな先達達の遺伝子を受け継いでいる僕たちは基本的に体験を伴ってしか学ぶことが出来ない。


当然ながら石器時代にはインターネットもなければ本すらないのである。

だから彼は実際に経験して、あるいは仲間が経験しているのを見て、そこから学ぶことで生き延びていくしかなかったのである。

そんな彼らの遺伝子を受け継ぐ僕たちにとっても体験を通して学ぶことの重要性が大きいのではないか。


少なくとも分かるということは、僕たちの遺伝子的に体験と強く結びついている気がする。


知った気がして分かってないことをやめよう

そうであるならば大きな問題がある。


この情報過多の時代を生きる僕たちは、簡単に多くの情報を知ってしまう。


そして知ることで分かった気になってしまう。



これは、僕の体感の要素が大きいがおそらく読んでいただいてるかたにも同じことを感じている人は多いと思う。


知った気になっていることも実際にその場になると対応ができなかったりする。


例えば、ナンパでもそうだろう。


女の子とのアポでこのようにふるまうべきと知っていても、実際に体験を伴って分かっていないと、反射的に、あるいは本当にそうなのだろうかという疑問から、知っていることと逆の行動をしてしまったりする。


知っただけで分かった気がしてしまうことの弊害は、できると錯覚して体験しようとしなくなること。

いいかえると批評するだけの奴になってしまうことだと思う。


ポジションを取らなくなってしまうということだ。

とにかく手を動かして体験しよう


それを避けるためには、とにかく手を動かすことだろう。

実際に自分がポジションをとって動くことで見える世界は変わってくるはず。


僕はこれからどんどんポジションをとっていく。

そして、おそらくその延長線上に、僕が求めている答えがあると思う。

その線がどれだけ長いかはまだ見えないけれど、やることでした分からないのだ。


がんばろう、僕。

おわり